“音楽とは、感動の絵巻を生み出す泉なり“ 原音の探求に挑戦する男たち


巴里祭で賑わう昭和41年7月14日

虎ノ門ホールは、勢揃いしたオーディオ評論家と、会場を埋め尽くした満員の オーディオ・マニアの熱気で、むせ返っていた。「ステレオはビクター」を自負する日本ビクターが、 音響機器のリーダーとしての威信をかけた「ナマとのスリカエ実験演奏会」が、今しも開幕しようとしていたからである。 昭和39年の4月、朝日講堂で行われた初実験では、テープと演奏器のスリカエに初めて成功した。 昭和40年の7月16日には、北村栄治クインテットの生演奏から、レコード演奏へのスリカエに成功して自信をつけたステレオ事業部が、 其の総仕上げとして実行に踏み切ったのが、大編成のSYMPHONY ORCHESTRAと、レコードとのスリカエをやってのけようという今宵の演奏会である。 舞台では、ニッフィルのピックアップ・メンバーで編成するROYAL  PHILHAMONIC ORCHESTRAのメンメンが、開幕のベルを今や遅しと待ち構えていた。

お前の情熱と信念にかけると百瀬社長が・・・・・・

「モノラルがステレオになっただけでは、生の感動には程遠い。ステレオ機器を構成する各コンポーネントの、 質だけを改良しただけでは片手落ち。それだけでは生の臨場感は得られません。そこで私は、音場パターンと、 臨場感が作り出す感動との関係を、実際に大ホールを使って実験する事を決意しました。成功するか否かは、あくまでも2の次。 業界のリーダーのビクターが、これまで誰も果たせなかった、考えもしなかった実験に挑戦する姿を、一般大衆に知ってもらえれば、 目的は達成されも同然だと力説したのですが、常務会でも結論が出ずに困り果てた時、私に救いの手を差し伸べて下さったのが百瀬社長でした。 “オレは鈴木健の情熱と信念にかけて見よう!よーし、やれーヤ・・・”とOKサインを出して下さったのです。其の日の感激が未だ昨日の事の ように思えてなりません・・・」と「ナマとのスリカエ」という前人未到の実験を自ら立案して、実行に移した鈴木健さんは、しみじみこう語った。

服部克久指揮 / ROYAL PHILHARMOIC ORCHESTRA

やがて開演のベルが鳴り終わると、舞台の左手から、あの独特の笑顔を見せながら指揮者の服部克久さんが、ステージに其の姿を見せた。 「この夜の実験は、ステレオ事業部だけでは到底出来るものではありません。スタジオの録音技術部、レコード事業部、営業本部、全国の営業所、 ビクター音産の皆さんの、心からのご協力があったからこそ出来たのです。とりわけ指揮を担当して下さった服部さんは、連日に亘ったリハーサルで、 度々の企画変更にも拘わらず、オーケストラの皆さんを、其の都度納得させながら対応してくださった事に感謝申し上げます」と健さんは付け加えた。  やがて拍手が鳴り止むと、服部克久さんの指揮棒が大きく、激しく揺れ動いた。ビゼーの「カルメン」の、あの有名な前奏曲のメロディが華麗に、 派手やかに会場に流れ始めたのである。音にうるさい評論家の先生は、一様に音の差異を聞き取り易いホールの中央部のS席に。
一方北野専務は、 会場の最後部の席に陣取って、戦況(?)や如何にと、あの大きな耳をそばだてていた。 会場で聞き耳をソバ立てているのは、何も北野専務だけではない。ナマ演奏とレコードの演奏が、いつ、どの部分でスリ替えられて会場に流れてくるのか、 ホールを埋めた人達の1,200ヶにも及ぶ両耳が、この一点に集中していたといっても過言ではない。

ナマとのスリカエの仕掛け人 / ビクターオーディオを支えた男

“私はジプシー女、小鳥みたいに私を飼いならそうなんて、出来やしないと、言い寄る男たちに、カルメンが真っ赤な花を投げつける・・・・” あの有名なHABANERA(ハバネラ)が、ROYAL PHILHARMONICのストリングセクションによって、美しく演奏され始めた。 今宵の総指揮官の健さんは、「ナマとのスリカエ」の劇的ドラマを、「ハバネラ」のシークエンスに仕掛けていたのである。 前方サイドに設けられたスクリーンには、演奏の進行と共に、刻々と数字が映し出され、何番でスリカエが始まり、何番で終わったかを 言い当てる仕組みになっているのだ。ところが「ハバネラ」が終わっても、誰も気づいた様子はない。我こそは、スリカエを当てようと、 会衆が耳がまえ(?)をしている中に、オーケストラはプログラムの全てを演奏し終わった。服部克久さんの右手の指揮棒が動かなくなった其の時、 場内は一瞬静まりかえった。そしてしばらくすると、静寂が、嵐のような拍手に変わったのである。実験の成功に対するビクターへの拍手は鳴り止まず、 場内は、しばし感動に酔いしれた。正解者はわずか1%とは、統計的にゼロに等しい%である。  健さんは、思わず舞台の上で北野専務と感激の握手を交わした。並み居る評論家達から健さんへの拍手の嵐・・・。
健さんは早速、本社の社長室に成功の報告をした。 百瀬さんは此の日、家に帰らず、電話を、今か今かと待ち受けていたという。此の実験の成功は、「臨場感再生」を目指すビクター独特の音作りに、 貴重な資料をもたらせた事は、申すまでもない。

6人のサムライが、電蓄技術科をステレオ事業部に

「電蓄の事業は、ラジオやテレビのように、電波という放送局まかせの“タレ流しソフト”を、ただ受信、受像する装置を作る事業ではありません。 ソフトとハードの両者を、自らの手で製作し、提供する事によって、そこに新たな感動を呼び起こすクリエイティブな事業です。従って企画も設計も、 販売も独特なものが要求されます。電蓄をラジオから分離してください・・・」  日本ビクターが松下経営に入って間もない頃、一介の電蓄の設計者だった鈴木健さんは、臆することなく本社の門を叩き、北野専務にこう直訴した。 其の当時、地方に行くと、ラジオは売っていても、電蓄を売っている店はごく僅か。市によっては、ゼロという時代だった。 一方電蓄の生産といえば、ラジオ工場の一角に間借り同然だった電蓄技術課の生産量は1ヶ月の中、僅か数日間で完了する程、其の需要量は少なかったのである。  「よーしやってみろ!お前の思うとうりやれ・・・」北野専務は、炎のように燃える鈴木健さんの直訴に、その場でOKのサインを出したのである。 それからというものは課長以下5人の電蓄スタッフによる月月火水木金金の日々が続いた。40名のラジオ技術課と60名の白黒TV技術課を向こうに廻して、 鈴木健(課長)、金子勘作(モーター・プレイヤー)、松田文男(セット・アンプ)、菊池昭二(ピックアップ)、石井芳一(スピーカー)、沢地幸作 (メカ)の6人のサムライ達の作業は深夜に及び、終電車に乗り遅れることしばしば。 健さんは、深夜に発車する郵便貨物車を拝み倒して、新子安から平塚の自宅に辿り着いたと言う。 やがて健さんグループの決死の努力が次々と実を結び、僅か数年で電蓄技術課は製造部となり、さらに生産部から事業部へと発展、ビクターの収益を支える ステレオ事業部へと、其の姿を変えて行ったのである。

音楽とは、感動の絵巻を生み出す泉なり

ビデオが世に出るまで、オーディオでビクターを支えた男、鈴木健!   定年に関係なく、今でも原音の探求に生命をかける男、鈴木健!   大和工場、レコード工場、音研に建っている石碑には、鈴木健さんが、自らの思いを書き綴った言葉が刻みこまれている。

原音探求 / 音楽を愛する者

 “音楽を愛する者
 音楽を精神の糧とする者にとって、
 音楽は信仰に似ている、
 音の再生に生涯をささげるわれらは、
 限りなく奥深い原音の究明に、
 悔いなき日々を生きなければならぬ“ 

著者について

出典は
「ニッパー(犬)とビクターの仲間たちPART2
(企画:日本ビクターOB有志、制作:小藤武門)」によりました。